あなたは毎日、食事をいただく時に感謝を込めて「いただきます」と言い、手を合わせますか?
我々の子供の頃はどこの家庭でも、学校でもそのようにしつけられていたと思いますが、今はどうでしょうか。聞いた話ですが、教育の現場では政教分離とやらで、手を合わすことは宗教儀式にあたるという理由から生徒にさせないそうです。手を合わせること(合掌)はお互いを尊重し合うという意味も込められていて、タイ国では正式の挨拶(「ワイ」と呼ばれます)です。
私達人間は、自分の命を維持するために野菜にしろ肉にしろ、その命をいただくのですから、「いただきます」と言って、手を合わすことは、本来当然の行為なのですね。
ひとつ、とても心に残る「シーン」があります。またまた、タイ国の話で恐縮ですが、随分前のことです。私は東京への便を待ちながら、空港内の軽食を食べさせる簡易なレストランでくつろいでいました。いつものことですから、間違いなくビールを飲んでいたと思います。横道に逸れますが、タイには「シンハー」という名前の、ちょっとアルコール度が高いのですが、旨いビールがあります。ビールに限らず、酒類はその国ではその国のものを飲むべきですね。気候風土にあったものをその土地の食べ物と一緒に飲めば、その国を理解できるし、一番おいしいはずだからです。
リラックスしてビールを飲んでいた私の目の端に家族連れの姿が入りました。シンガポール人でしょうか、香港の方でしょうか、ひょっとしてタイ人かもしれませんが中国系の30歳台の夫婦と小学校低学年らしい息子さんが一緒です。そのくらいの年齢の男の子は、旅行に出かけるとなれば、異常にはしゃいだり、いたずらをし通しなのが普通かもしれません。しかし親子3人、とても静かなのです。静かなのでかえって目立つこともあるのですね。
3人は、夫々パンがひとつのった皿とミルクが入っているグラスを前にして、手をテーブルの下で目立たないように組んで祈っているのです。敬虔なクリスチャンなのでしょう。お父さんが小さな声で祈りの言葉をつぶやいているようでした。男の子は神妙な顔で両親に従っています。
タイでは安くておいしいものがいつでも食べられます。世界で一番食いしん坊なのはタイ人なのではないでしょうか。大都市ではもちろん、ちょっとした町でも、そば屋や軽食の屋台がところ狭しとならび、ぼてふりの売り子がさまざまな食べ物を売り歩いています。人々は通勤の途中であろうと、休憩時間中であろうと、ちょっと屋台のそば屋に寄り、お菓子を買い、そして飲み物を歩きながら飲んでいます。実に食べ物が豊かな国です。
飽食の国、日本から来て、タイ滞在中に旨いものをたらふく食べた私は、その家族の質素な食事と祈りに鮮烈な印象を受けました。どのような食べ物でも感謝していただく。それは何も特別なことではなく当たり前のことなのですが、お金を出せばなんでも手に入る現代、私はそういった感謝を忘れていたことに思い当たって少し恥じました。
その家族にとってはそれがいつもの姿なのでしょう。とてもすばらしい場面を目の当たりにして清々しい気持ちになりました。このような感動に出会うこともできるので、旅行っていいですね。10年以上も前のことですが、今でも忘れられない瞬間です。
曹洞宗では五観の偈(げ)といって、食事の前に唱える教えがあります。食事を戴く心構えを明らかにするものです。
宗祖、道元禅師様が中国で体験された貴重な経験から、食事がいかに大事なものであるか、また料理を作っている人達(典座・てんぞ)がどれほど重要な役目を担っているかを我々に自覚させるものです。
「一つには功の多少を計り彼の来処を量る」
私達の目の前にある食物はどれほどの人々の手を煩わし、そしてどれほどの動植物の命をいただいたものだろうか。
「二つには己が徳行の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供に応ず」
動植物の命を戴く価値が自分にはあるだろうか。
「三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす」
食事は心身を育てるためである。だから貪り食うなどはひかえなければならない。
「四つには正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり」
痩せ衰えないために食事を戴くのである。つまり食事は良薬を服すると同じことだ。
「五つには成道の為の故に今此の食を受く」
食事はただ空腹を満たすだけのものではない。身体を健康に保ち、それに伴ない心も育てるのである。仏教徒として仏道に帰依するためにこの食事を戴くのである。
貴方も食事をいただく時に手を合わせ、お唱えしてみませんか?きっと、今迄とは違う感動が生まれるでしょう。
一玄 合掌
平成16年2月3日
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